わかりあえないことから その2

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

 

読了。

 

ちょっとだけ違和感を覚えた所に関して。

 

不登校の子供が言う「いい子を演じるのに疲れた」という言葉に対して、演劇人である著者は「本気で演じた事もないくせに、軽々しく『演じる』なんて使うな」とか、秋葉原通り魔の加藤被告が「小さいころから『いい子』を演じさせられたし、騙すのには慣れてる」という言葉に、なんという「操られ感」、なんという「剥離感」という言葉を使っている。

 

なんというか、この人は認知心理学等の科学的視点から演劇やコミュニケーションを見る事ができる人なのに、演劇とか演じるとかいう言葉には感情的になっちゃうのな。

 

彼らは正に親からの期待(いい子)によって『演じさせられていた』。朝起きてから夜寝るまで。それを十何年も。あるきっかけで『演じさせられていた』自分に気づければまだ良い。あるいはそうやって気づいて親のせいにできる子もまだ良いかもしれない。そこから抜け出す手段として自分や他人を傷つける前になんとかなれば。

 

大概は、自我が確立して親と子の自立を促す為の反抗期という段階を経て、『演じさせられていた』自分から抜け出して、自分が演じたいロールを見つけ出すフェーズに入って行く。そういった段階があると私は思うのだけど、「いい子」を演じることに疲れない子供を作るとか、「いい子」を演じるのを楽しむことを教えるのが教育だとか。いい子ってのは自分以外の他の人にとっての「いい子」でしかないというのに。

 

 

まあ、そういう「教育論」については、私とは不一致を見た本な訳なんですけど、コミュニケーション論とか、対話の話とかはとてもとても参考になったし、とても気付きの多い本でした。会社におけるコミュニケーションのダブルバインドや、おじさんたちが考えるコミュニケーション能力と若者のコミュニケーション能力は別物で、別に若者のコミュニケーション能力が落ちている訳ではないとか、国語教育とコミュニケーション教育は違うとか、コミュニケーション教育と人格教育は違うとか、コンテクストの擦り合わせとか、とても参考になりますね。

 

ただ、政治とか教育論とかは語らない方が良い気がしますね。そこはちょっとあまり良くない気が個人的にはしました。